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聖武天皇と光明皇后

まずは「東大寺」の動画をごらんください。




奈良の国宝と世界遺産を探索していると度々耳にする名前が聖武天皇と光明皇后です。

このお二人はいったいどんな人物なんでしょうか。

聖武天皇
ウィキペディアより

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。

略歴
文武天皇の第一皇子として生まれたが、7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった(物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった)。このため、文武天皇の母親である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年(714年)には首皇子の元服が行われて正式に立太子されるも病弱であったことと皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。

聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが天平元年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。

しかし、天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われて、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。

天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が執り仕切っていた。天平16年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平17年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。

天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる)。初の男性の太上天皇となる。

天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。戒名は、勝満。

光明皇后の希望もあり、東大寺に聖武遺愛の品が納められた。その一部は正倉院に伝存している。なお、1907〜8年の東大寺大仏殿改修の際に、蓮華座の近辺で見つかっていた二本の太刀が、納められてまもなく(759年12月)に正倉院から持ち出され、正倉院の目録である国家珍宝帳に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが2010年にエックス線調査で判明した。この一組の太刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。





光明皇后

ウィキペディアより

光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の人。聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。 なお、「光明皇后」というのは諡号や追号の類ではなく通称で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后という。また初の皇族以外からの皇后である。

生涯
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王を出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。神亀4年(727年)、基王を生んだ。

神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。

娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。

天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。

天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に葬られた。

文化的側面
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。


書をよくし、奈良時代の能書家として聖武天皇とともに有名であり、作品には『楽毅論』(がっきろん)や『杜家立成雑書要略』(とけりっせいざっしょようりゃく)などがある。

楽毅論
王羲之の『楽毅論』を臨書した名品であり、本文は縦簾目のある白麻紙二帳半に43行、奥の軸付に黄麻紙一帳を添えて「天平十六年十月三日(744年11月11日)藤三娘」と署名がある。筆力は雄健である。

和歌
和歌は『万葉集』に4首とられている。

伝説 仏教の庇護者としてさまざまな伝説も伝えられており、光明皇后が、重症の癩病(らいびょう。ハンセン病)患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来(あしゅくにょらい)であったという話はよく知られている。国立ハンセン病療養所である邑久光明園はこの逸話から名付けられている。
都大路に並木を造る際に、貧しい人が飢えないようモモとナシの木を選んで植させたと伝えられる。
大阪府和泉市と堺市南区に跨る位置にある光明池の名前は、光明皇后生誕の地という伝説から由来している。なお、現在は泉北高速鉄道の駅名(光明池駅)や学校、運転免許試験場などの公的機関の名前などにも使用されている。(参考:光明皇后伝説)
大阪府岸和田市にある久米田寺周辺は「久米田古墳群」に指定されており、その中に「光明(光明皇后)塚古墳」がある。



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