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番外編 世界遺産 原爆ドームと地図

まずは原爆ドームの様子を動画でご覧ください。
動画を見るには画面の中央の矢印をクリックしてください。


2012.7.14〜15にかけて広島に行ってきました。

目的はもちろん広島にある2つの世界遺産「原爆ドーム」と「厳島神社」です。

今回は奥さんと2人での旅行です。

番外編としてこの2つの世界遺産をご紹介します。

午前8時自宅を出発。ちょっとゆっくり出すぎました。

近畿道、中国道、山陽道を経由して広島インターまでです。

早速中国道宝塚トンネルで18kmの渋滞で抜けるのに2時間を要しました。

あとは順調でしたが、結構疲れました。

結局広島に到着したのは午後2時ぐらいだったとおもいます。

それから広島市街地まで国道を走りようやく到着。

お腹もすいていたので早速「お好み焼き」をいただきました。

関西人の僕からすると「これってお好み焼き?」っていう感じなんですが、まあこれはこれでアリかなというところでした。

大阪のお好み焼きよりはボリューム満点でした。

このあと早速最初の目的地「原爆ドーム」へ。

以外にも「原爆ドーム」って街の中心地にあったんだなという印象です。

ここで「原爆ドーム」についてウィキペディアの記事を引用してご紹介します。


原爆ドーム(げんばくドーム、英: Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英: Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)である。元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれている。

原爆投下までの沿革
1919年(大正8年)3月4日から物産陳列館で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」では、日本で初めてバウムクーヘンの製造販売が行われた。これは、第一次世界大戦中に中国の青島で日本軍の捕虜となり、広島湾に浮かぶ似島の似島検疫所内「俘虜収容所」に収容されていた株式会社ユーハイム創業者、ドイツ人の菓子職人カール・ユーハイムによるものである。

1921年に広島県立商品陳列所と改称し、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。1933年には広島県産業奨励館に改称された。この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献した。しかし、戦争が長引く中、1944年3月31日にはその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。

被爆以後の歴史

被爆時の状況
1945年8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂した。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。

ドーム部分が全壊しなかった理由として、
衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと
窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったことドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと

などが挙げられている。ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。

原爆投下時に建物内で勤務していた職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されている[3]。なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となった。

その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。

「原爆ドーム」としての再出発

広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まった。その中で鉄枠のドーム形が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。

復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められたが、原爆ドームの除去はひとまず留保され、1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による「広島平和記念公園」が完成した。この公園は、原爆ドームを起点とし、原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館とを結ぶ軸を南北軸として設計されており、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものだった(原爆ドームは公園の北端にあたる)。

原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代に入ると、年を追って風化が進み、危険であるという意見が起こった。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、流れを変えたのは1人の女子高校生、楮山(かじやま)ヒロ子の日記である。彼女は1歳のときに被爆し、15年後の1960年、「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議する。翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存されている。市民の募金と広島市の公費により1989年に行われた2回目の大補修以降、3年に一度の割合で健全度調査が行われ、最近では2009年に6回目の調査が行われている。

広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。世界遺産ブームの中、さまざまな年代・国籍の人が多く訪れるようになった一方、立ち入り禁止区域に入って落書きや悪ふざけをするなどの心無い行為・迷惑行為が問題になっている。

世界遺産への登録
1992年に日本政府が世界遺産条約を受諾したことを契機に、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択。市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人分超の署名を添えた国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択された。1992年当初、日本政府は「世界遺産への推薦には『その遺産が国内法(文化遺産であれば日本では文化財保護法)で保護されていること』が条件」であるとしており、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に指定できないため、推薦要件を満たさない」として原爆ドームの推薦には消極的であった(しかし日本国外では、アウシュヴィッツや、アパルトヘイトに反対する政治犯を収容したロベン島、ベルリンのモダニズム集合住宅群など、「歴史が浅く」ても、国内法によって保護された上で世界遺産に登録された例は複数あった)。文化庁が消極的だった背景には、アメリカや中国・韓国を刺激したくないという政治的配慮が強く働いていたが、結果としてこれが署名運動の盛り上がりにつながり、上記のような多数の署名者を得ることになった。

1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。

原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われた。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた(アメリカ国民の中では「原爆使用は百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉えている傾向が強い)。また、中華人民共和国は、「日本は戦争への反省が足りない」として審議を棄権している。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター[1]からの翻訳、引用である)。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

基準(6)のみの適用で登録されているのは例外的なケースだが、比較的歴史の浅い負の世界遺産には共通してみられる傾向である。

問題点

保存についての問題
原爆ドームは単なる戦争遺跡というだけでなく、核兵器による破壊の悲惨さの象徴・人類全体への警鐘といったメッセージ性のある遺産という性格をもつため、保存に際しては「可能な限り、破壊された当時の状態を保つ」という特殊な必要性をはらんでいる。作業は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はそのたびに取り除かれている。定期的な補修作業・点検や風化対策にもかかわらず経年による風化も確認されるが、他の世界遺産で施されるような一般的な意味での修復や改修・保全とは別種の困難が伴う。

また、日本列島は常に地震の脅威にさらされているため、保存工事では大型地震に対しての耐震性も考慮されている。ただし、耐震強度計算および工事計画はあくまでも理論上の数値に基づいているため、地震の規模や加重のかかり方が想定外の場合、崩落する危険性を常に抱えている。なお2001年3月24日の芸予地震では、広島市中区は震度5弱の揺れに遭遇したが、この時は目立った被害はなかった。

2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設のあり方懇談会」が開催されている。保存に当たっては
自然劣化に任せ保存の手を加えない
必要な劣化対策(雨水対策や地震対策)を行い現状のまま保存
鞘堂、覆屋の設置
博物館に移設

以上の四つの案が提案されたが、2006年に「必要な劣化対策を行い現状のまま保存」とする方針が確認された。

危機遺産への登録問題
2006年、原爆ドーム周辺の緩衝地帯で高層マンション建設計画が進んでいることが明らかになった。周辺の景観が破壊され、同様の景観問題を抱えていたケルン大聖堂のように危機遺産リストに登録されてしまうのではないかと問題になった(ケルン大聖堂の危機遺産リスト登録は、ケルン市が条例で建造物の高さを規制するなどして状況が改善されたため2006年をもって解除)。しかし、原爆ドームは大聖堂と異なり負の世界遺産であり、原爆ドームの存在が都市の発展を阻害するという状況はむしろ本末転倒ではないかという声もある。


原爆ドーム

原爆ドーム
「原爆ドーム」


僕は今までにたくさんの国宝や重要文化財の建造物を見てきました。

世界遺産にも何ヶ所か行っています。

しかしこの「原爆ドーム」だけは他とは区別しなければならないと思います。

この建物自体、本来は戦争の象徴になるために建てられたわけでもないですし、美しさもない。

もちろんこの建物を見てもなんの感動もない。

しかし世界の人が見ておかなければならない建物だと思います。

僕ごときがこれ以上語れるレベルの問題ではありませんのでこれぐらいにしておきます。

この日もたくさんの人が世界中から来ていました。

しかし「原爆ドーム」を見る目は「清水寺本堂」や「東大寺大仏殿」を見る目とは違いました。

この後すぐ近くの「広島平和記念公園」に行きました。

原爆ドーム
慰霊碑より原爆ドームを臨む


「原爆資料館」へも行きました。

やはりここも世界の人々が見ておかねばならないところです。

とにかく言葉では表現できないです。

このブログをはじめて以来はじめてテンションがあがらない探索記になりました。

世界遺産「原爆ドーム」は、建物ではなく歴史の真実を残していかなければならない世界遺産でした。

このあと車で「広島城」周辺やそこいらをくるくるっと回ってから今宵の宿「コンフォート広島」に到着。

夜は繁華街(なんという街なのかもわからない)で奥さんと「京風隠れ家ダイニング」で夕食をしました。

僕の思ってたより広島って都会かな。怒られますね。

晩ご飯したところもアーケードがあってまあ大阪の「ミナミ」的な感じのところでした。

まあ昼のお好み焼きで結構満腹で、夜はあんまり食べれませんでしたけど。

とにかく明日は広島のもう一つの世界遺産「厳島神社」へ行きます。

多分明日はテンション上がりまくれると思います。

この続きは次回ということで。

それではまた。

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アクセス
JR広島駅から、広島電鉄市内線・宮島線のうち、1系統(紙屋町経由広島港ゆき)と5系統(比治山下経由広島港ゆき)を除くすべての電車に乗車、原爆ドーム前電停下車。1系統では紙屋町東・本通いずれかの電停から原爆ドームまで5分程度で歩ける。










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