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興福寺(こうふくじ) 五重塔初層公開と地図

まずは興福寺の様子を動画でご覧ください。




2010.10.23 奈良に行ってきました。

今回の目的は「興福寺」の五重塔の初層開帳と奈良国立博物館の国宝「僧形八幡神、神功皇后、仲津姫命坐像」の拝観、そして「薬師寺」の東塔初層開帳を見に行くことです。

前回の「金峯山寺」の時も書きましたが、とにかく今年の奈良は熱いです。

次いつ見れるかわからないお宝があちらこちらで公開されているからです。

僕も暇とお金の許す限り見に行きたいと思っています。

ではまず「興福寺」です。

今回は近鉄電車でいきました。

「近鉄奈良駅」についたのが8時55分でした。

そこから歩いて約5分で「興福寺」に到着。

ちょうどお目当ての「五重塔初層公開」が始まったばかりでした。

興福寺


まずここ「興福寺」は世界遺産「古都奈良の文化財」のひとつです。

世界遺産「古都奈良の文化財」とは

世界遺産登録理由
奈良市内に点在する寺社等の総称で、東大寺興福寺春日大社元興寺薬師寺唐招提寺平城宮跡春日山原始林からなる。日本建築と日本美術の進化のひときわ優れた証拠性を有し、それらは中国と朝鮮との文化的つながりの結果であり、後世の発展に重要な影響を与えることになったことなどをはじめ、世界的に見ても高い文化的価値を有するとして、1998年に世界文化遺産に登録されました。



興福寺について
ウィキペディアより
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

歴史

創建

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。

平重衡の兵火による焼失

興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平合戦の最中に行われた平重衡の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。 この時、興福寺再興に奔走したのは焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。

廃仏毀釈による破壊

江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった(さすがに買い手はつかなかった。この件は廃仏毀釈の行き過ぎぶりを語るときによく引用される)。それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていた。

行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、所謂「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残である。

現在

1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。
中金堂再建中。南大門再建計画中。

伽藍と文化財

かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていた。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は、創建以来たびたび火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。

中金堂

中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれている。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、現在興福寺国宝館で見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価なマツ材が使用され、瓦も安物が使われたために経年による雨漏りがひどく、1974年に中金堂裏側の講堂跡に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を、大改造により外観を変えて移築したもの)が建てられ、本尊などはそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されている。なお、仮金堂解体後の発掘調査も終了し、創建1,300年の2010年着工、2015年完成をめざし、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が進められている。

仮金堂内には興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)のほか、以下の諸仏を安置する。
木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重文)-像高3.6メートルの巨像。現在は中金堂本尊釈迦如来像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)造立されたもの。
木造四天王立像(重文)-もと南円堂にあったもの。鎌倉時代、運慶の父・康慶一門の作。

2009年に開催された「お堂で見る阿修羅展」では、仮金堂内安置仏に加えて阿修羅を含む八部衆と十大弟子像が一堂に安置された。

西金堂跡

天平6年(734年)、光明皇后が母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として創建した。平安時代から鎌倉時代にかけて、3度被災したがその都度再建された。その後江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は現在まで再建されていない。釈迦如来(体部は焼失し頭部のみ国宝館に安置、伝運慶作)、両脇待(薬王、薬上菩薩、中金堂に両脇待として安置)、梵天帝釈天(明治時代に流出しサンフランシスコアジア美術館蔵、奈良時代)、十大弟子(うち六体が国宝館などに安置、奈良時代)、八部衆(国宝館安置、奈良時代)、金剛力士像(国宝館安置、鎌倉時代)、四天王(所在不明)、華原磐(国宝館安置、奈良時代)などが安置されていた。

大湯屋

五重塔の東方に建つ。五重塔と同じく応永33年(1426年)頃の再建。

菩提院大御堂

五重塔の南、三条通りを渡ったところに建つ、興福寺の子院である。現在の堂は天正8年(1580年)の再建で、本尊阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。

本坊

境内東方に位置する。一般には公開されていない。
木造聖観音立像(重文) - 本坊持仏堂(大圓堂)本尊。鎌倉時代の作。一般には公開されていないが、1997年東京国立博物館で開催された「興福寺国宝展」で初めて公開されたほか、2007年10月20日 - 11月25日に寺内で初めて公開。寺伝では聖観音像とされているが、像内納入文書によれば、本来は弥勒菩薩像として、建長5年(1253年)に仏師快円によって作られたものである。


国宝館

国宝館は旧・食堂(じきどう)の跡地に建てられた文化財収蔵・展示施設で、1959年に完成した。鉄筋コンクリート造だが、外観は旧・食堂を模した寺院建築風である。食堂は1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊されている。内部にはもと食堂本尊の千手観音の巨像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像をはじめとする多くの寺宝が展示されている。2010年3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えたほか、文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。現館長は金子啓明。




ここで僕の大好きな国宝のご紹介
建造物
*東金堂 
*五重塔 
*北円堂 
*三重塔 
彫刻
*文殊菩薩坐像(東金堂) 
*維摩居士坐像 定慶作(東金堂) 
*四天王立像(東金堂) 
*十二神将立像(東金堂) 
*弥勒仏坐像 運慶作(北円堂) 
*無著・世親立像 運慶作(北円堂) 
*四天王立像(北円堂) 
*不空羂索観音坐像 康慶作(南円堂) 
*四天王立像(南円堂) 
*八部衆立像 8躯(国宝館・旧西金堂) 
*十大弟子立像 6躯(国宝館・旧西金堂) 
*金剛力士立像 2躯(国宝館・旧西金堂) 
*天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝館・旧西金堂) 
*法相六祖坐像 6躯 康慶作(国宝館・旧南円堂) 
*十二神将像(国宝館・旧東金堂) 
*仏頭(国宝館・旧東金堂) 
*千手観音立像(附:像内納入品)(国宝館・旧食堂) 
その他
*金銅燈篭 
*梵鐘 
*華原磬 
*日本霊異記上巻 
*興福寺金堂鎮壇具



この説明文を見てくださればわかりますように、「興福寺」ってすごいんです。

国宝26件重文44件
特に国宝彫刻は17件でわが国の国宝彫刻の14%を占めるというすごさなんです。

このブログをやっている限り「興福寺」と「法隆寺」は避けては通れないお寺なんです。

ですから僕も奈良に来た時は記事にはしなくても出来る限り「興福寺」に寄っています。

さて話を戻します。

境内に入り早速「五重塔初層」と「東金堂」の拝観券を購入(1000円でした)。

まだ時間も早かったので待ち時間はありませんでした。

早速国宝「興福寺五重塔」の中へ。

もちろん初めて入ります。


興福寺


興福寺


興福寺
国宝「興福寺五重塔」

国宝「興福寺五重塔」(こうふくじごじゅうのとう)
応永33(1426)
三間五重塔婆、本瓦葺
五重塔は天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建でだそうです。高さ50.8メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い。

興福寺
五重塔内部図
パンフレットより


塔内部はまず、真ん中に「心柱」という大きな柱があり、その四方に仏様がおられました。

まず入ってすぐの西側には「阿弥陀三尊像」、北には「弥勒三尊像」、東には「薬師三尊像」、そして南には「釈迦三尊像」が安置されていました。

めったに見られないものを見るとうれしいもんです。

ずっとこの中にいたいという気持ちでしたがそうもいきません。

気持ちをおさえて次へ。

五重塔の公開もすごいんですが、実はその隣に建っている国宝「興福寺東金堂」の「後堂」も公開されているんです。

これもめったにないことなんですよ。

普段から常に公開されている「東金堂」ですが、「後堂」つまり裏側は公開されていません。

早速「東金堂」へ。

なんかわくわくしてました。そうなるんですよ。「興福寺」は。


興福寺

興福寺

興福寺
国宝「興福寺東金堂」

国宝「興福寺東金堂」(こうふくじとうこんどう)
応永22(1425)
桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺
東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建したそうです。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えたそうです。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建である。室町時代の建築であるが、規模、形式ともに天平時代の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置しています。
*維摩居士坐像(ゆいまこじざぞう)(国宝)
*文殊菩薩坐像(もんじゅぼさつざぞう)(国宝)
*四天王立像(してんのうりゅうぞう)(国宝)
*十二神将立像(じゅうにしんしょうりゅうぞう)(国宝)
*薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)(重文)

普段はこれだけなんですが、今だけ「後堂」、つまり裏側に「正了知大将像」(しょうりょうちたいしょう)という像が公開されています。

「正了知大将」は「金光明最勝王経」などに説かれる仏法の守護神で、苦難を取り除き服を授ける神として信仰されています。
「東金堂」創建当初から「後堂」に安置されていたといいます。1017年の火災時に踊り出て消失を免れたことから「踊り大将」とよばれ、「希代の霊像」とたたえられたそうです。

普段はこれだけはあまりにも失礼でした。

4件もの国宝彫刻を安置している「東金堂」に対して。

しかしあまりにもお宝があるので、こういうふうな感覚になってしまうんです。

興福寺
「東金堂の諸尊」
ウィキペディアより

興福寺
東金堂の配置図
パンフレットより


「東金堂」を満喫した僕はさらに「宝の蔵」と勝手に呼んでいる「国宝館 」へ。

今年3月「国宝館」もリニューアルされました。

以前より綺麗なのはもちろん仏像も見やすくなっています。

興福寺
「国宝館 」


興福寺
国宝「阿修羅像」(あしゅらぞう)八部衆立像8躯のうち
ウィキペディアより


「国宝館」のお宝をご紹介しますと。

*八部衆立像(はちぶしゅうりゅうぞう)
奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存しますが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われています。中でも三面六臂(手が6本)の阿修羅像が著名です。

*十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)
奈良時代の作。八部衆像とともに、西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つです。当然ながら制作当初は10体の群像でしたが、4体は明治時代に寺外へ流出し、舎利弗(しゃりほつ)、目助譏A(もくけんれん)、伝須菩提(すぼだい)、富楼那(ふるな)、迦旃延(かせんねん)、伝羅序H羅(らごら)の6体のみが寺に現存すします。寺外に流出した4体は、明治時代の古写真に写っていますが、いずれも破損が激しい。これら4体のうち、大倉集古館旧蔵の1体(伝優波離像)は関東大震災で焼失しました。他の3体は以下の所蔵先に現存しますが、いずれの像も原形を留めていません。
o 伝阿難像(個人蔵) - 大破していた像の欠失部分を補って復元したものとされるが、詳細不明。
o 伝大迦葉像(大阪市立美術館蔵) - 頭部のみ残存。
o 像名不詳心木(東京藝術大学大学美術館蔵) - 両足先と衣の裾の部分がかろうじて残存する。

*仏頭(ぶっとう)
奈良時代の作で、頭部のみ残っていますが、白鳳文化を代表する作品。旧山田寺仏頭とも。元来、飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊薬師三尊像の中尊像の頭部で、東金堂にありましたが、室町時代の火災で頭部だけがかろうじて焼け残りました。(この火災により、右耳付近が大きく変形しています。)この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、1937年(昭和12年)に再発見されました。この時には他に、類例の少ない銀製の仏像の腕(重文)も発見されています。

*金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)
もと西金堂安置。鎌倉時代。

*天燈鬼・龍燈鬼立像(てんとうき・りゅうとうきりゅうぞう)
もと西金堂安置。大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した、鎌倉期彫刻の傑作です。龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われます。

*法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)
運慶の父・康慶一門の作。玄賓(げんぴん)、行賀、玄(げんぼう)、神叡、常騰、善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。南円堂の本尊の周囲に安置されていました。

*千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)
もと食堂(じきどう)本尊。現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置されます。高さ5.2メートルの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃の完成と推定されます。この千手観音像は記録によると造像開始から完成まで4半世紀の歳月を要しました。当初の造像担当者であった成朝は運慶の父康慶の兄弟子にあたり、康慶よりも正当な慶派の後継者でした。しかし成朝は病弱であったため千手観音像の制作途中で亡くなったと推定されています。その後放置されていたものが何らかの理由で制作が再開され、別の仏師の手により完成されました。像の部材は制作が中止されている間風雨に晒されていたらしく、内部の木肌は酷く痛んだ状態でした。

*十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)
平安時代の作。日本では珍しい、板に浮き彫りにした仏像で、現在は剥落していますが、もとは彩色されていました。12面完存しています。

*金銅燈籠(こんどうとうろう)
南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、現在は国宝館に展示されています。平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものです。火袋の文字は当代の書道史の遺品としても貴重。

*梵鐘(ぼんしょう)
奈良時代、神亀4年(727年)の銘があります。制作年の分かる梵鐘としては、妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古い。

どうですか? 読んだだけでもすごいでしょ。

「阿修羅」ばかりが注目されているように思えますけど、あくまで「阿修羅」は「八部衆」のひとつで、そのほかの7体の像もすばらしいですし、千手観音も大きくて素晴らしいしと、とにかく一度見に行ってください。

うまく説明できませんが入ってもらえればあまり興味のない方でも何かを感じられるはずです。

さらにさらに今年の「興福寺」はすごいんです。

創建1300年に際してもともと3つあった金堂(現在は「東金堂」のみが残る)のうち「中金堂」を再建しようしています。



中金堂について
ウィキペディアより
かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていました。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていました。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられました。これらの堂宇は、創建以来たびたび火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきました。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっています。

中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されます。のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれています。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返しましたが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建されました。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、現在興福寺国宝館で見られる仏像の多くを堂内に安置していました。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため長年の使用に不向きであるものの安価なマツ材が使用されており、瓦も安物が使われたために経年による雨漏りがひどく、1974年に中金堂裏側の講堂跡に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を、大改造により外観を変えて移築したもの)が建てられ、本尊などはそちらに移されました。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されています。なお、仮金堂解体後の発掘調査も終了し、創建1,300年の2010年着工、2015年完成をめざし、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が進められています。

興福寺
「仮金堂」


興福寺

興福寺

興福寺

興福寺
「中金堂」完成予想バーチャル画像
パンフレットより


平成30年には落慶が行われるそうです。

その時には現在「仮金堂」に安置されている、「釈迦如来坐像」や「四天王立像」も戻り、天平の壮麗な金堂が再び伽藍にそびえる予定です。

さあさあさらにこの日は国宝「北円堂」も開帳されていました。

すごすぎる出来事です。

「南円堂」の国宝「不空羂索観音坐像」と「四天王立像」以外のすべての国宝を見れるということなんですよ。

普段ではありえないことです。

早く見たくて走るように「北円堂」へ。



興福寺

興福寺

興福寺
国宝「興福寺北円堂」

国宝「興福寺北円堂」(こうふくじほくえんどう)
承元4(1210)年
八角円堂、一重、本瓦葺
北円堂は養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させたものだそうです。現在の建物は承元2年(1208年)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物になるそうです。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」であるそうです。

「北円堂」のお宝もご紹介。
*弥勒仏坐像(みろくぶつざぞう)
晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)頃に完成したもの。

*法苑林菩薩・大妙相菩薩半跏像
弥勒仏の脇侍像ですが、制作年代は室町時代に下る。

*無著菩薩・世親菩薩立像(むちゃくぼさつ・せしんぼさつりゅうぞう)
無著・世親の兄弟は5世紀頃のインドで活動した唯識教学の祖で、興福寺が属する法相宗では尊ばれています。本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作。鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品、日本の肖像彫刻の最高傑作の1つとして高い評価を得ています。

*四天王立像(してんのうりゅうぞう)
他の諸仏より古く平安時代ごく初期の像である。弘安8年(1285年)の修理銘によると、本来は大安寺のもので、延暦10年(791年)に造立されたといいます。

興福寺
国宝「無著菩薩像」
パンフレットより


ここにも国宝彫刻が3件。

ホンマにすごい「興福寺」です。

興福寺
「南円堂」

「南円堂」です。
南円堂(重文)は弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建しました。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建です。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像でした。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものでした。堂は西国三十三箇所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみです(2002年秋、2008年秋に特別開扉が行われた)。

そして最後にご紹介しておきたいのが国宝「興福寺三重塔」です。


興福寺
国宝「興福寺三重塔」

国宝「興福寺三重塔」(こうふくじさんじゅうのとう)
鎌倉前期
三間三重塔婆、本瓦葺
三重塔(国宝)は、康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されました。治承4年(1180年)の大火による焼失記録はありませんが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられます。

これで「興福寺」のほとんどの建物等をご紹介したつもりです。

とにかく今までに来た中で一番値打ちのある日でした。

これだけのことをしてくれるのも今年だけだと思いますので、行きたいと思った人はすぐにでも行ってみてください。

「興福寺」に行って後悔することはまずありませんから。

きっと何かを感じてこれるはずです。

僕の説明も今までで一番細かかったんではないでしょうか。

なんせ文は下手やし、ボキャブラリーはないし、うまく伝える力が無いもんですから。

みなさんに「興福寺」んも素晴らしさが伝わってますか?

しかし国宝が大好きやということだけはわかってもらいたいです。

これからもいろいろな国宝の情報をお伝えしていきたいと思っています。

以上が「興福寺」の探索記です。

次の目的地は「奈良国立博物館」です。

しかしこの続きは次回ということで。

それではまた!

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2010.10.23 奈良県の国宝建造物と彫刻探索の旅 
興福寺 奈良国立博物館 薬師寺

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亀吉の探索済みの京都府の世界遺産と国宝スポット
亀吉の探索済みの奈良県の世界遺産と国宝スポット
奈良県には国宝建造物64件国宝彫刻70件があります 
奈良のお寺・神社一覧(178件)

奈良公園周辺

興福寺
2008.2.24
2009.12.26
2010.10.23

東大寺
2008.2.24(1)(2)
2009.12.26
2010.4.11
2010.12.16
2011.3.4
2011.4.9
2011.8.15
2012.1.14

正倉院

春日大社
2008.2.24
2010.12.16
2011.8.15

元興寺
2008.2.24
2012.1.14

平城宮跡
2009.12.26
2010.5.1

春日山原始林

平城京左京三条二坊宮跡庭園

新薬師寺

十輪院
2008.3.8
2012.1.14

奈良国立博物館
2009.12.26
2010.10.23



奈良南西部及び西の京
佐保、佐紀路辺り


薬師寺
2008.2.24
2010.10.23
2011.3.19

唐招提寺
2008.2.24
2009.11.8
2010.6.5(1)(2)

秋篠寺

般若寺

法華寺
2008.3.8
2010.3.22

海龍王寺


旧柳生街道

円成寺


天理市

石上神宮


奈良市西部

長弓寺

霊山寺


斑鳩の里

法隆寺 
2008.3.2(1)(2)(3)(4)
2009.12.12(1)(2)(3)(4)
2010.3.13
2010.3.22
2010.4.11

法起寺

中宮寺


葛城市

当麻寺
2008.3.2
2010.4.29(1)(2)



飛鳥 桜井

岡寺

聖林寺

長谷寺
2008.3.2
2011.4.29

安倍文殊院new


宇陀市

室生寺

宇太水分神社


五條市

栄山寺


吉野

金峯山寺
2008.3.16
2010.10.16

吉野水分神社

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの滋賀県の世界遺産と国宝スポット
滋賀県には国宝建造物22件国宝彫刻4件があります


大津市

石山寺

園城寺 
2008.4.12
2010.8.7
2011.10.29

日吉大社

延暦寺


野洲市

御上神社

大笹原神社


蒲生郡

苗村神社


彦根市

彦根城


長浜市

渡岸寺(向源寺)

竹生島 宝厳寺と都久夫須麻神社


犬上郡

西明寺


愛知郡

金剛輪寺


湖南市

善水寺

常楽寺

長寿寺

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの和歌山県の世界遺産と国宝スポット
和歌山県には国宝建造物7件国宝彫刻5件があります


高野山

金剛峰寺
2008.5.4(1)(2)
2011.10.20(1)(2)(3)(4)(5)

金剛三昧院
2008.5.4
2011.10.20

慈尊院と丹生官省符神社と丹生都比売神社
2008.5.4
2011.10.20


岩出市

根来寺


海南市

善福院

長保寺


日高郡

道成寺

赤字は世界遺産

亀吉の探索済みの兵庫県の世界遺産と国宝スポット
兵庫県には国宝建造物11件国宝彫刻1件があります

姫路市

姫路城


神戸市

太山寺
加古川市

鶴林寺
小野市

浄土寺
加西市

一乗寺
加東市

朝光寺

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの大阪府の国宝スポット
大阪府には国宝建造物5件国宝彫刻4件があります


大阪市

住吉大社
2008.3.22
2011.10.1


藤井寺市

葛井寺
2008.3.30
2010.4.18

道明寺
2008.3.30
2010.4.18


河内長野市

観心寺
2008.3.30
2010.4.18


堺市

桜井神社


貝塚市

孝恩寺


泉佐野市

慈眼院


交野市

獅子窟寺


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