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西本願寺(にしほんがんじ)の国宝と地図 2011.9.10その一 「飛雲閣」「書院」「北能舞台」特別拝観

まずは「本願寺大書院庭園」の動画をご覧ください。
動画を見には画面の中央をクリックしてください。




2011.9.10 京都へ国宝探索に行ってきました。

今回の最大の目的は「西本願寺」のまだ見ぬ国宝「飛雲閣」と「書院」の特別公開を見に行くことです。

本来予約が必要なんですが、

今年は、親鸞聖人の750回大遠忌ですので、4月、5月、6月に続き、9月、10月、11月も法要期間は予約なしで参観できます。

また、午前中の書院は対面所、虎渓の庭、南能舞台のみで、白書院には行けません。
午後は、白書院にも行けます。
飛雲閣は午前も午後も大丈夫です。

9/8の午後、9/9~9/16の終日、9/17の午前中

10/8の午後、10/9~10/14の終日、10/17の午前中

11/8の午後、11/9~11/16の終日、11/17の午前中です。

という情報を「Amadeusの「京都のおすすめ」 ブログ版(観光)」というというサイトから入手したんです。

喜び勇んで出かけたのでした。

今回も電車とバスでの探索です。

「三十三間堂」「西本願寺」「八坂神社」「高台寺」「清水寺」と回りました。

でも今回はとにかく「西本願寺」です。

2009.8.14 以来2度目の「西本願寺」です。

今回は長くなりそうなので2回に渡って「西本願寺」について書きたいと思います。

この日はまず「三十三間堂」を拝観したあと「京都駅」まで戻り、「西本願寺」までは徒歩で行ってみました。

京都駅方面から堀川通りを歩いていくと左手に大きな一画が現れます。

そして大きな門が2つ並んでいます。

西本願寺
「御影堂門」


西本願寺
「阿弥陀堂門」


この2つの門の向こう側が「西本願寺」に境内です。

22
パンフレットより


前回も書きましたが、もう一度もっともっと詳しく「西本願寺」についてまとめてみたいと思います。

大変長くなります。

まずここ「西本願寺」は世界遺産「古都京都の文化財」のひとつです。

世界遺産 「古都京都の文化財」について
世界遺産登録理由
京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市に点在する寺社等の総称。具体的には賀茂別雷神社(上賀茂神社)賀茂御祖神社(下鴨神社)教王護国寺(東寺)清水寺延暦寺醍醐寺仁和寺平等院宇治上神社高山寺、西芳寺(苔寺)、天龍寺鹿苑寺(金閣寺)慈照寺(銀閣寺)竜安寺本願寺二条城の 17件。京都は8世紀から17世紀の間、宗教・非宗教建築と庭園設計の進化にとり主要中心地であり、日本の文化的伝統の創出に決定的な役割を果たし、特に庭園は19世紀以降世界の他の地域において意義深い影響を与えたことなどが評価されたもの。


とっても長くなりますが西本願寺について
ウィキペディアより
西本願寺(にしほんがんじ Nishi Hongwanji)は、京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山。
西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」・下京区)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。

本願寺の歴史
親鸞の入滅
弘長2年(1262年 )11月28日(グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)、親鸞は押小路南万里小路東(おしこうじみなみまでのこうじひがし)の「善法院」において入滅する。享年90(満89歳)。後に、覚如によって「宗祖」(「開祖」)に定められる。
翌29日午後8時に葬送。下野国高田の顕智、遠江国池田の専信なども上洛し参列。東山鳥辺野(とりべの)の南、「延仁寺」で荼毘にふす。
翌30日拾骨。鳥辺野の北「大谷」に墓所を築き納骨する。
廟堂建立
文永9年(1272年)、親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、親鸞の墓所を「大谷」の地より「吉水の北の辺」に改葬し「大谷廟堂」を建立する。
建治3年(1277年)、大谷廟堂の管理・護持する「留守職」(るすしき)は覚信尼が当たる。
弘安3年 (1280年)、覚信尼とその子覚恵の依頼により、如信が大谷廟堂の法灯を継ぐ。しかし寺務は覚信尼・覚恵に委任し、陸奥国にある大網の草庵[4]に戻り布教活動を続ける。(『大谷本願寺通紀』)。如信は、親鸞の祥月忌のため毎年上洛し、その際に覚如に対して宗義を教える。後に、覚如によって「本願寺第二世」に定められる。
弘安6年(1283年)、覚信尼の入滅にともない、覚恵が大谷廟堂の「留守職」を継承する。
永仁3年(1295年)、親鸞の「御影像」を安置・影堂化し「大谷影堂」となる。
正安4年(1302年)、覚恵と唯善の間に起こった大谷廟堂の留守職就任問題(唯善事件)が勃発する。
延慶2年(1309年)7月、青蓮院により覚恵の長男である覚如が継承することと裁定が下される。敗れた唯善は「大谷廟堂」を徹底的に破壊して鎌倉へ逃亡する。
延慶3年(1310年)、覚如が東国(関東)の門徒の了承を得て、大谷廟堂の「留守職」を継承する。(~1314年、1322年~1338年、1342年~1350年〈委譲・復職を繰返す。〉) このことから、大谷廟堂が寺院化した後も、本願寺法主は血縁によって継承されるようになる。
延慶4年/応長元年(1311年)、覚如は親鸞の五十回忌に当たり「御影像」と影堂を再建する。
応長2年(1312年)、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようと「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。
正和3年(1314年)、存覚が留守職を継承する。(~1322年、1338年~1342年〈覚如により、解任・復職を繰返す。〉)
本願寺成立
元亨元年(1321年)、覚如が再度寺院化を試み、「本願寺」と号し成立する。これより後、本願寺教団は移転時に「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになる。(便宜上、「大谷本願寺」と呼称される場合もある。)「本願寺」の寺号は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされる。
覚如は、親鸞の門弟・門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図する。
元弘元年(1331年)、覚如は『口伝鈔』を著し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する(法脈…法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統…親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。
しかし現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。正和以後も元徳2年(1330年)・観応3年(1352年)・嘉慶2年(1388年)にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった青蓮院の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。
観応元年(1350年)、存覚は覚如と和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の善如に委譲する。
浄土真宗の発展と本願寺教団の形成
当時、浄土真宗は本願寺に一本化されたわけではなく、東国では親鸞の門弟たちの教団によって継承されていく。真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒。他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。また了源の教団は、京都の佛光寺を中心にして「名帳」・「絵系図」によって発展をとげる。
康応2年/明徳元年(1390年)、綽如が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の巧如に委任する。綽如は越中(富山県)井波に瑞泉寺を建立する。
明徳4年(1393年)4月24日、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。
応永元年(1394年)、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。
第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく存如の時代により発展し、近江(滋賀県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越前(福井県)などで本願寺教団の形成がみられるようになる。
本願寺は、近江国や北陸地方を中心に徐々に教線を拡張する。
本願寺にも御影堂と阿弥陀堂の両堂が建てられた。この時の無理の影響で、本願寺の財政は逼迫する。
中興の祖・蓮如
応永22年(1415年)、存如の長男・蓮如(幼名・布袋丸)誕生する 。
永享8年(1436年)、巧如は長男の存如に本願寺を委譲し、存如が第七世となる。
長禄元年(1457年)6月18日、存如が入滅する。存如の妻如円尼は実子の蓮照に継職させようと計るものの、存如の弟如乗の支持によって、蓮如が本願寺を継承し第八世となる。
継承当時の本願寺は衰亡の極みにあり、青蓮院の一末寺でしかなく、蓮如の支援者となる堅田本福寺の法住らが参拝しようとした際に、余りにも寂れた本願寺の有様に呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。
そのころ京都は土一揆で騒然。翌々年には大飢饉で、加茂川が餓死者で埋まる。諸国は戦乱が絶えず、深刻な様相を呈していた。
寛正6年(1465年)、本願寺(大谷本願寺)は延暦寺西塔の衆徒によって破却される(寛正の法難)。この法難に遭うまで「本願寺」はこの地にあった。
文明3年(1471年)、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
社会は徐々に進展し、民衆が力を得た。農村の生産力の増大と、荘園領主の没落で、農民の地位はしだいに向上し、やがて自治的な惣村をつくる。蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な教化を開始した。蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は、近畿から東海地方に拡がりをみせる。特に近江(滋賀県)では広く帰依し、無碍光本尊が普及するようになる。
文明6年(1474年)、加賀国の守護職を世襲する富樫氏の内紛で、富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は、対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢が生じるようになる。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては諸説ある)。
文明7年(1475年)8月21日、蓮如は吉崎を退去する。一揆を扇動した下間蓮崇を破門する。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。
文明7年(1475年)、蓮如は争いを鎮静化させるため吉崎を退去し、河内(大阪府)の出口を拠点に積極的な布教を開始。結果、浄土・聖道諸宗の僧俗が多く帰依する。
文明10年(1478年)、蓮如は出口から山科へおもむき、翌年1月本願寺造営に着手する。
文明15年(1483年)8月22日、「本願寺」(「山科本願寺」)」が落成する。
伽藍の整備と平行し、寺の周辺に多数の民家が営まれ、寺内町が形成され、諸国から参詣人や各職種の人たちが集い、京都市中をしのぐ賑わいをみせるようになる。
本願寺の教線は、東北から九州にいたる全国にのびた。さらに中国大陸北部の契丹人も教えを求めて来日した。蓮如によって本願寺は日本有数の大教団に成長する。
長享2年(1488年)〜天正8年(1580年)、加賀国の本願寺門徒らが中心による「加賀一向一揆」が起こる。
延徳元年(1489年)、蓮如は5男の実如に本願寺を委譲し、実如が第九世となる。
明応6年(1497年)、蓮如は隠居所として、大坂石山に坊舎(「大坂御坊」)を建立する。
明応7年(1498年)11月22日付の蓮如の『御文(御文章)』四帖の十五に、「大坂」という地名が史料にはじめて現れる。
「そもそも當國摂州東成郡生玉に荘内大坂といふ在所は往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、年はやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。」
明応8年(1499年)3月25日、山科本願寺にて蓮如入滅する。
戦国時代の本願寺
第九世実如・第十世証如・第十一世顕如が本願寺法主を務める100年間は、戦国混乱の時期にあたる。本願寺は、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となる。この間に、教勢は著しく発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。
明応9年(1500年)、実如の長男照如、22歳で入寂。
永正年間。越前(福井県)の朝倉氏の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入。
永正元年(1504年)、相模(神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内の真宗を禁ずる。
永正3年(1506年)、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。
永正4年(1507年)、細川政元が家督争いのため暗殺される(永正の錯乱)。本願寺は蓮如以来、政元と親交があり、紛争にまきこまれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難する。
永正6年(1509年)、山科本願寺に戻る。
永正13年(1516年)、後柏原天皇の勅願寺となる。
永正18年(1521年)、越後(新潟県)の長尾氏、本願寺門徒を禁圧する。
大永元年(1521年)8月20日、円如(実如の次男)、32歳で示寂。
大永5年(1525年)2月2日、第九世実如の遷化にともない、証如が本願寺を継承し第十世となる。
天文元年(1532年)、証如は細川晴元の要請を受け、近畿の門徒2万人を動員して畠山氏を破る(飯盛城の戦い)。
同年8月、山科本願寺は、京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍の焼き討ちによって、焼失する(法華一揆)。寺基を大坂石山の「大坂御坊」へ移し、「大坂本願寺」(「石山本願寺」)と号する。「大坂御坊」は、蓮如の隠居所として建立された小規模な坊舎であったが、この頃には拡大されていて、寺内町も形成されていた。
天文10年(1541年)、朝倉氏との間で和談。
天文22年(1553年)、長尾景虎(上杉謙信)は京都への通路を確保するため本願寺と和解。
天文23年(1554年)8月13日 、第十世証如の入滅にともない、顕如が本願寺を継承し第十一世となる。
弘治2年(1556年)、朝倉氏との間で講和成立。
永禄2年(1559年)、顕如、門跡に列せられる。
下間氏が坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺が院家となる。
永禄6年(1563年)、三河(愛知県)の本願寺門徒、徳川家康と争い、翌年に和睦。これ以後、徳川家康は領国内の本願寺門徒を禁圧。禁圧がとけたのは、20年後の天正11年(1583年)。
薩摩(鹿児島県)の島津氏、明治初年まで禁教を継続。
永禄9年(1566年)、後北条氏が禁教を解除。上杉謙信と対抗するための連携を目的とするとされているが、禁教が実施されたのが確認できるのは享禄年間までで、天文年間以後善福寺や勝願寺(古河公方領、永禄年間に後北条氏支配下に入る)などの活動は許されていることから、この頃には形骸化していたとみられている。[7]
永禄11年(1568年)、織田信長、京都に入る。
永禄12年(1569年)、顕如の次男顕尊が入寺した興正寺は脇門跡に任ぜられる。
元亀元年(1570年)9月12日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初、顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦する。
石山合戦の頃から、「大坂本願寺」は、「石山御坊」と呼ばれるようになる。
合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。
天正8年(1581年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、信長と和議が成立する。顕如は穏健派と共に石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠する。しかし教如は、信長を信用せず[8]徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶する。義絶後も「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。
同年8月2日、教如は、近衛前久の説得に応じ「石山本願寺」から退去し、信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。教如は、その後も強硬派への支持を募る。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長自害。
同年6月23日、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案する。
同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。
天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれる。
同年(1583年)、宗祖真影を奉じて、和泉の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの願泉寺)に移る。(「貝塚本願寺」)
天正13年(1585年)5月、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。(大坂天満本願寺)
京都移転
天正19年(1591年)、豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、8月、御影堂を天満から移築する。
天正20年(1592年)7月、阿弥陀堂を新築し「本願寺」が完成する。しかし教団の内部分裂は継続する。
文禄元年(1592年)11月24日、顕如の入滅にともない、教如が本願寺を継承する。この時、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため、教団内の対立に発展する。
教如退隠
文禄2年(1593年)閏9月12日、豊臣秀吉は教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。穏健派が秀吉に働きかけたと考えられる。
1.大坂ニ居スワラレ候事。
2.信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。
3.太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。
4.当門跡不行儀のこと、先門跡時ヨリ連レント申上候事。
5.代ユヅリ状コレアル事、先代ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。
6.先門跡セツカンノ者メシ出サレ候事。
7.メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。
8.当門主妻女ノ事。
9.ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。
10.右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。
11.心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。
つまり、問題点(上記の1~8)を挙げ、10年後に弟の准如に本願寺法主を譲る旨の命が下される。
この事を聞いた強硬派の坊官が、秀吉に異義を申し立てる。秀吉の怒りを買い「今すぐ退隠せよ」との命が下される。
同年閏9月16日、准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定する。教如は退隠させられる。
本願寺分立
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、同戦いで協力した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信(三河一向一揆では一揆側におり、本願寺の元信徒という過去があった)による「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図する。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すとともに、本願寺を分立させる。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂する。
慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が分立する。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになる。
現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による。
西本願寺の歴史
天正19年(1591年)、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、大阪天満から現在の堀川六条に寺基を移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より教如(11代顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進され本願寺が東西に分立する。分立当初は、准如の「本願寺」を「本願寺」・「六条門跡」・「本門」と称され、教如の「本願寺」を「信淨院本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門」と称された。
昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺を「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺は「西本願寺」と通称されるようになる。
幕末期には京都を守る剣客集団新選組の本拠地ともなっている。現在まで境内地に大きな変化は無いが、明治9年(1876年)に真宗興正派が独立した際に南境内地を割譲。近年、境内地北側の旧本圀寺跡地(日蓮宗大本山、山科区に移転)を購入している。本願寺の寺基自体は400年以上に渡り移転していない。
本願寺の住職が浄土真宗本願寺派の門主に就任する。


ここで僕の大好きな国宝のご紹介
建造物
*書院(対面所及び白書院)
*北能舞台
*黒書院及び伝廊 2棟
*飛雲閣
*唐門
その他
*紙本墨画親鸞聖人像(鏡御影) 附絹本著色親鸞聖人像(安城御影)・ 絹本著色親鸞聖人像(安城御影副本)
*「観無量寿経註」親鸞筆 
*「阿弥陀経註」 親鸞筆 
*熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰以下11通)附伏見宮貞敦親王御添状1巻、飛鳥井雅章添状1巻
*三十六人家集37帖、附後奈良天皇宸翰女房奉書1幅
以上


今までこのブログを初めて以来最長の説明になってしまいました。

でもそれぐらいこの「本願寺」というものは大きくて深いお寺なんですね。

これ以上1回に書くと読む方も疲れますので続きは次回ということで。

それではまた!

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2011.9.10 京都府の国宝建造物と彫刻探索の旅
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亀吉の探索済みの京都府の世界遺産と国宝スポット
亀吉の探索済みの奈良県の世界遺産と国宝スポット
奈良県には国宝建造物64件国宝彫刻70件があります 
奈良のお寺・神社一覧(178件)

奈良公園周辺

興福寺
2008.2.24
2009.12.26
2010.10.23

東大寺
2008.2.24(1)(2)
2009.12.26
2010.4.11
2010.12.16
2011.3.4
2011.4.9
2011.8.15
2012.1.14

正倉院

春日大社
2008.2.24
2010.12.16
2011.8.15

元興寺
2008.2.24
2012.1.14

平城宮跡
2009.12.26
2010.5.1

春日山原始林

平城京左京三条二坊宮跡庭園

新薬師寺

十輪院
2008.3.8
2012.1.14

奈良国立博物館
2009.12.26
2010.10.23



奈良南西部及び西の京
佐保、佐紀路辺り


薬師寺
2008.2.24
2010.10.23
2011.3.19

唐招提寺
2008.2.24
2009.11.8
2010.6.5(1)(2)

秋篠寺

般若寺

法華寺
2008.3.8
2010.3.22

海龍王寺


旧柳生街道

円成寺


天理市

石上神宮


奈良市西部

長弓寺

霊山寺


斑鳩の里

法隆寺 
2008.3.2(1)(2)(3)(4)
2009.12.12(1)(2)(3)(4)
2010.3.13
2010.3.22
2010.4.11

法起寺

中宮寺


葛城市

当麻寺
2008.3.2
2010.4.29(1)(2)



飛鳥 桜井

岡寺

聖林寺

長谷寺
2008.3.2
2011.4.29

安倍文殊院new


宇陀市

室生寺

宇太水分神社


五條市

栄山寺


吉野

金峯山寺
2008.3.16
2010.10.16

吉野水分神社

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの滋賀県の世界遺産と国宝スポット
滋賀県には国宝建造物22件国宝彫刻4件があります


大津市

石山寺

園城寺 
2008.4.12
2010.8.7
2011.10.29

日吉大社

延暦寺


野洲市

御上神社

大笹原神社


蒲生郡

苗村神社


彦根市

彦根城


長浜市

渡岸寺(向源寺)

竹生島 宝厳寺と都久夫須麻神社


犬上郡

西明寺


愛知郡

金剛輪寺


湖南市

善水寺

常楽寺

長寿寺

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの和歌山県の世界遺産と国宝スポット
和歌山県には国宝建造物7件国宝彫刻5件があります


高野山

金剛峰寺
2008.5.4(1)(2)
2011.10.20(1)(2)(3)(4)(5)

金剛三昧院
2008.5.4
2011.10.20

慈尊院と丹生官省符神社と丹生都比売神社
2008.5.4
2011.10.20


岩出市

根来寺


海南市

善福院

長保寺


日高郡

道成寺

赤字は世界遺産

亀吉の探索済みの兵庫県の世界遺産と国宝スポット
兵庫県には国宝建造物11件国宝彫刻1件があります

姫路市

姫路城


神戸市

太山寺
加古川市

鶴林寺
小野市

浄土寺
加西市

一乗寺
加東市

朝光寺

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの大阪府の国宝スポット
大阪府には国宝建造物5件国宝彫刻4件があります


大阪市

住吉大社
2008.3.22
2011.10.1


藤井寺市

葛井寺
2008.3.30
2010.4.18

道明寺
2008.3.30
2010.4.18


河内長野市

観心寺
2008.3.30
2010.4.18


堺市

桜井神社


貝塚市

孝恩寺


泉佐野市

慈眼院


交野市

獅子窟寺


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