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高野山の国宝と地図 2011.10.20 その二「壇上伽藍」

まずは「高野山」の様子を動画でご覧ください。
動画を見には画面中央をクリックしてください。






2011.10.20 「高野山」探索の旅の続きをご紹介します。

前回「高野山」についてと世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の説明を中心書きましたので前回の記事をご覧になるにはこちらをどうぞ。

さていよいよ「高野山」探索の開始です。

まずは「壇上伽藍」へと向かう僕でした。

その前にまず「金剛峯寺」について

ウィキペディアより

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100ヶ寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。

「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。本項では「金剛峯寺」を中心に、高野山全体の歴史、信仰、文化財について触れる。

歴史

空海と高野山
空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海は宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安・青龍寺の恵果和尚(けいかかしょう)に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。

開創伝承
既述のように、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであり、空海が若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇している。丹生明神と狩場明神は丹生都比売神社に祀られている。金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。

平安時代
弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のことで、工事ははかどらなかった。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備した。その後、京都の東寺との確執もあり、正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。

荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、祈親上人定誉(きしんしょうにんじょうよ)によって再興された。治安3年(1023年)には藤原道長が参詣。平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎が立ち並んだという。

中世以降
戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、比叡山焼き討ちや石山合戦を行った織田信長と対立するようになった。天正9年(1581年)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山はなんとか存続することができた。のちに秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺(総本山金剛峯寺の前身)を建てた。

近世に入ると、徳川家が高野山を菩提所と定めたこともあり、諸大名を始め多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多い。昭和21年(1946年)からは高野山真言宗を名乗っている。

伽藍
概要
高野山は山中に開かれた宗教都市である。山内は西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮花谷の各地区に分かれ、それぞれに多くの寺院が存在する。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重文)があり、地区東端には奥の院への入口である一の橋がある。信仰の中心になるのは、山内の西寄りに位置する「壇上伽藍」と呼ばれる地区で、ここには金堂、根本大塔を中心とする堂塔が立ち並ぶ。その東北方には、高野山真言宗の管長が住む総本山金剛峯寺がある。この他に、「子院」(塔頭)と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。弘法大師信仰の中心地である奥の院は、上述の一の橋からさらに2キロほど歩いた山中にある。




「金剛峯寺」の前の駐車場に車を止めて少し西に向かって歩くと「壇上伽藍」の入口はあります。

伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。

高野山
「蛇腹路」

高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇場伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

紅葉の季節が深まるとすごく綺麗だと思います。

この「蛇腹路」を歩いていくと右側に最初の建造物「東塔」が姿を表します。

高野山
「東塔」(とうとう)

大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。

天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

そして「東塔」の隣には「三昧堂」(さんまいどう)が建っています。

高野山
「三昧堂」(さんまいどう)

済高(さいこう)座主(870年~942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。

後に壇場へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。
三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)
高野山
「西行桜」


さらにその隣には「大会堂」(だいえどう)が建っています。
高野山
「大会堂」(だいえどう)


鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。

もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇場に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。

現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂で、本尊は阿弥陀如来が奉安され、脇侍(きょうじ)として観世音菩薩、勢至(せいし)菩薩がともにまつられています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

さらに「大会堂」の東隣には「愛染堂」(あいぜんどう)が建っています。
高野山
「愛染堂」(あいぜんどう)

建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。

昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。

このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

そしてこの「愛染堂」の向かい南側には「壇上伽藍」で唯一の国宝建造物「不動堂」が建っています。

高野山


高野山
国宝「金剛峰寺不動堂」 (こんごうぶじふどうどう)

国宝「金剛峰寺不動堂」 (こんごうぶじふどうどう)
鎌倉前期
桁行三間、梁間四間、一重、入母屋造、右側面一間通り庇、左側面一間通り三間庇、すがる破風造、向拝一間、檜皮葺
不動堂は、本来は建久9年(1198)に鳥羽院皇女八条女院の御願により行勝上人が創建した、一心院の本堂であったと伝えられています。もとは一心院谷にあったものが、ここ伽藍へ移築されました。平成7年から平成11年にかけて解体修理が行われ、その結果、現在の建物は鎌倉時代後期の再建と考えられるようになっています。本尊の不動明王坐像は平安時代後期の作で重要文化財、その脇侍である八大童子立像は運慶作で国宝に指定されており、現在は不動堂には代わりの像を安置し、霊宝館に収蔵されています。

「壇上伽藍」唯一の国宝建造物だと思うとなぜか不思議に思えます。

これだけの歴史あるお寺ならもっとあってもおかしくないと思うんですが、何度も火災などの被害にあっているんでしょう。

とにかく貴重な建造物です。

ここから東に向かうと階段があり一段高くなっています。

階段を登ると右手に超巨大な朱塗りの「多宝塔」がそびえます。

「根本大塔」(こんぽんだいとう)です。

高野山
「根本大塔」(こんぽんだいとう)

お大師さま、真然大徳(だいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。

北側に安置されている二体の仏様は多聞天(たもんてん)と持国天(じこくてん)で、江戸時代の作といわれています。この二尊(にそん)は、もともと中門に安置されていたもので、火災から奇跡的に免れて、西塔へ収められていました。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

和歌山県「根来寺」の国宝「根本大塔」かこの「大塔」かというぐらい巨大です。

多分こっちの方が大きいでしょう。

鉄筋コンクリート造りだそうです。

そしてこの塔の南側にも大きなお堂が建っています。

「金堂」です。

高野山
「金堂」

高野山御開創当時は講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。

現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。

内部の壁画は岡倉天心の理想に傾倒し、日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃくそんじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の薬師如来(秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

さらに「大塔」の向かいには「大塔の鐘・高野四郎(こうやしろう)」があります。
高野山
「大塔の鐘・高野四郎(こうやしろう)」

お大師さまが鋳造を発願され、真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳されました。

現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。

現在でも毎日午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回に分けて時刻を高野山内に知らせています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

そして「金堂」の南側では現在「中門」が再建中です。

金堂の正面手前の一段低い所に、礎石のみを残す中門。五間二階の楼門で、両脇には持国天(じこくてん)像(東)・毘沙門天(びしゃもんてん)像(西)がまつられていましたが、天保14年(1843年)に壇場を襲った大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くしました。それ以降、再建はされていませんが、現在、高野山開創1200年記念大法会の記念事業として、中門の再建作業が進んでいます。

なお、持国天像と毘沙門天は類焼をまぬがれ、現在は根本大塔の南奥側に奉安されています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

かなりご紹介してきましたが、まだまだ建造物があるのがこの「高野山」のすごいところです。

さらにつづけますと、

「金堂」の西側に「六角経蔵」(ろっかくきょうぞう)があります。

高野山
「六角経蔵」(ろっかくきょうぞう)

鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。したがって、この六角経蔵は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(1934年)2月に再建されました。経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができるようになっています。この部分は回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。
この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重要文化財として霊宝館に収蔵されています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

次に「金堂」の北側には「御影堂」(みえどう)があります。
高野山
「御影堂」(みえどう)

もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。

このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

とにかくどこのお寺に行っても「御影堂」とよばれる建物は特別です。

そして立派な建物が多いです。

その「御影堂」と「金堂」の間には「三鈷の松」(さんこのまつ)と呼ばれる松があります。
高野山
「三鈷の松」(さんこのまつ)

金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木にこのようなエピソードが残っています。

弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。

現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

もちろん僕も三つ葉の松を探して持ち帰りました。

御利益があればいいんですけどね。

さらにこの「御影堂」の西側には「准胝堂」(じゅんていどう)が建っています。
高野山
「准胝堂」(じゅんていどう)

本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられています。この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられています。その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、移動されたということです。幾たびも焼失しましたが、現在の堂は明治16年(1883年)に再建されました。

なお、このお堂では毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と呼ばれる法会が営まれています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

さらにさらにですが西側には「孔雀堂」(くじゃくどう)が建っています。
高野山
「孔雀堂」(くじゃくどう)

正治元年(1199年)、東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑(しんせんえん)にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就されました。その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。

昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。

本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

そして「孔雀堂」の隣西側には「西塔」(さいとう)が建っています。

この「西塔」が西の端になります。
高野山
「西塔」(さいとう)

お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、真然大徳によって建立されました。その計画とは、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画でした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、仁和2年(886年)に建立されました。

西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

考えてみたらこの「壇上伽藍」には3つの「多宝塔」が建っています。

これも珍しいんじゃないでしょうか。

そして「西塔」の南側に「鐘楼」があります。

高野山
「鐘楼」


そして「鐘楼」のさらに南側に「山王院」があります。
高野山
「山王院」

山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財となっています。

このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

そして本当に最後、「山王院」の奥の西の端に「御社」(みやしろ)が建っています。
高野山
「御社」(みやしろ)


お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。社殿は三つあり、一宮は丹生(にう)明神、二宮は高野明神、三宮は十二王子・百二十伴神がまつられています。

丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

以上でほとんど「壇上伽藍」の建造物はご紹介出来たと思うんですがいかがでしょう。

もしかしたら何か抜けているかもしれません。

それほど大きくて建造物も多い「壇上伽藍」です。

あと、写真を撮るのを忘れてしまったんですが、「金堂」の西側に「登天の松」(とうてんのまつ)と「杓子の芝」(しゃくしのしば)というのもありました。

金堂の西側に位置する松の木は、登天の松(とうてんのまつ)と呼ばれています。壇場伽藍の北側に位置する明王院の僧、如法(にょほう)上人が、久安5年(1149年)にこの松より弥勒菩薩の浄土へと昇天されたそうです。

ちょうどその折、斎食の用意をしていた弟子の小如法は、師匠が登天するのを見て、あわててその後を追って昇天されたそうです。その時、小如法の手には杓子が握られており、昇天の途中にこの杓子が落ちてきたそうです。当時はこの松の周辺には芝が生い茂り、そこへ杓子が墜ちてきたことから杓子の芝(しゃくしのしば)と呼ばれるようになりました。
(「金剛峯寺」ホームページの説明文を引用)

さらには「不動堂」の南側に「蓮池」と呼ばれる池があります。
高野山
「蓮池」


この日は平日だったのでこの時間はほとんど人もいませんでした。

この雄大な「伽藍」を独り占めした気分は最高でした。

でも弘法大師「空海」がこの地に道場を開いた頃はいったいどんな感じだったんでしょうね。

そんなことを考えながら「伽藍」を見ているとなおワクワクします。

そしてなによりこの素晴らしい「伽藍」があるのも「お大師様」のおかげです。感謝。

現在再建中の「中門」が完成したら再びこの「壇上伽藍」に来たいと思います。

また違う「壇上伽藍」になっていることでしょう。

相変わらず説明ベタですがこれで「壇上伽藍」の探索記は終わります。

続いては「壇上伽藍」のすぐ南側近くにあります「霊宝館」や「総本山金剛峯寺」「徳川家霊台」「女人堂」「刈萱堂」「金剛三昧院」などをご紹介します。

しかしこの続きは次回ということで。

それではまた!

拝観料 堂内拝観 500円 山内共通券(金剛峯寺、霊宝館、根本大塔、徳川家霊台、大師教会本部、金堂) 1500円

駐車場 あります(無料)

時間  8:30~17:30(11~4月は~16:30)







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2008.2.24(1)(2)
2009.12.26
2010.4.11
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2011.3.4
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春日大社
2008.2.24
2010.12.16
2011.8.15

元興寺
2008.2.24
2012.1.14

平城宮跡
2009.12.26
2010.5.1

春日山原始林

平城京左京三条二坊宮跡庭園

新薬師寺

十輪院
2008.3.8
2012.1.14

奈良国立博物館
2009.12.26
2010.10.23



奈良南西部及び西の京
佐保、佐紀路辺り


薬師寺
2008.2.24
2010.10.23
2011.3.19

唐招提寺
2008.2.24
2009.11.8
2010.6.5(1)(2)

秋篠寺

般若寺

法華寺
2008.3.8
2010.3.22

海龍王寺


旧柳生街道

円成寺


天理市

石上神宮


奈良市西部

長弓寺

霊山寺


斑鳩の里

法隆寺 
2008.3.2(1)(2)(3)(4)
2009.12.12(1)(2)(3)(4)
2010.3.13
2010.3.22
2010.4.11

法起寺

中宮寺


葛城市

当麻寺
2008.3.2
2010.4.29(1)(2)



飛鳥 桜井

岡寺

聖林寺

長谷寺
2008.3.2
2011.4.29

安倍文殊院new


宇陀市

室生寺

宇太水分神社


五條市

栄山寺


吉野

金峯山寺
2008.3.16
2010.10.16

吉野水分神社

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの滋賀県の世界遺産と国宝スポット
滋賀県には国宝建造物22件国宝彫刻4件があります


大津市

石山寺

園城寺 
2008.4.12
2010.8.7
2011.10.29

日吉大社

延暦寺


野洲市

御上神社

大笹原神社


蒲生郡

苗村神社


彦根市

彦根城


長浜市

渡岸寺(向源寺)

竹生島 宝厳寺と都久夫須麻神社


犬上郡

西明寺


愛知郡

金剛輪寺


湖南市

善水寺

常楽寺

長寿寺

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの和歌山県の世界遺産と国宝スポット
和歌山県には国宝建造物7件国宝彫刻5件があります


高野山

金剛峰寺
2008.5.4(1)(2)
2011.10.20(1)(2)(3)(4)(5)

金剛三昧院
2008.5.4
2011.10.20

慈尊院と丹生官省符神社と丹生都比売神社
2008.5.4
2011.10.20


岩出市

根来寺


海南市

善福院

長保寺


日高郡

道成寺

赤字は世界遺産

亀吉の探索済みの兵庫県の世界遺産と国宝スポット
兵庫県には国宝建造物11件国宝彫刻1件があります

姫路市

姫路城


神戸市

太山寺
加古川市

鶴林寺
小野市

浄土寺
加西市

一乗寺
加東市

朝光寺

赤字は世界遺産
亀吉の探索済みの大阪府の国宝スポット
大阪府には国宝建造物5件国宝彫刻4件があります


大阪市

住吉大社
2008.3.22
2011.10.1


藤井寺市

葛井寺
2008.3.30
2010.4.18

道明寺
2008.3.30
2010.4.18


河内長野市

観心寺
2008.3.30
2010.4.18


堺市

桜井神社


貝塚市

孝恩寺


泉佐野市

慈眼院


交野市

獅子窟寺


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