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大安寺(だいあんじ)の情報と地図

大安寺(だいあんじ)について

大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。

歴史

奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。南都七大寺のなかでも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。奈良時代の大安寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめ歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした寺院であった。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末~近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。

前史~百済大寺

大安寺の歴史については、正史「日本書紀」「続日本紀」の記述のほか、天平19年(747年)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)が主なよりどころとなっている(「資材帳」の写本は奈良市・正暦寺旧蔵、国立歴史民俗博物館蔵)。「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が今の奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)であり、これが移転して、「百済大寺」(くだらのおおてら、くだらだいじ)、「高市大寺」(たけちのおおてら、たけちだいじ)、「大官大寺」(だいかんだいじ)と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」となったという。

「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が建てた熊凝精舎であった。病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に、熊凝精舎を本格的な寺院にすべきことを告げ、太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに建てたのが百済大寺であるという。初めての国家寺院である。熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺がその跡ともいわれるが、「大安寺資材帳」以外の奈良時代の史料にその名が見えないことから実在が疑問視されており、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみるのが通説である。一方の百済大寺については、奈良県北葛城郡広陵町に百済寺という寺が現存するものの、舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡も発見されていない。1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は、奈良県桜井市南西部(藤原宮跡の東方)にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。発掘調査の結果、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。

高市大寺と大官大寺

「日本書紀」には、天武天皇2年(673年)12月17日に美濃王と紀訶多麻呂が造高市大寺司に任命されたとあり、高市大寺が今の大官大寺だとする記述がある。「大安寺資材帳」には、その同じ日に御野王(「みののおおきみ」で美濃王と同じ)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、このときに寺を百済の地から高市の地に移したとある。673年は天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱に勝利した翌年であり、同天皇の父舒明天皇の三十三回忌、母斉明天皇の十三回忌にあたることが指摘されている。

資材帳にはさらに、天武天皇6年(677年)9月に高市大寺を改称して大官大寺としたと見える。高市大寺と大官大寺の関係については、単なる名称の変更と見るか、移転を伴う改称と見るかで研究者の意見が分かれている。

大官大寺跡

大官大寺跡は奈良県明日香村小山に残り、国の史跡に指定されている。寺跡の北には大和三山のうちの香久山、南には飛鳥浄御原宮跡が位置する。寺跡の残存状況は良好とは言えず、金堂の礎石は抜き取られて残っていない(明治時代、橿原神宮建設の際に抜き取られたという)。伽藍配置は廻廊の南側に中門、北側に金堂が位置し、廻廊で囲まれた方形の区画の東側(金堂の右手前)に塔が位置していた。廻廊内の西側(金堂の左手前)には建物跡が検出されておらず、東西2基の塔を建てる予定だったものが中断されたのか、もともと1基のみの塔を建てる計画であったのかは定かでない。塔は方5間(初層平面の1辺に柱が6本立ち、柱間が5間あるという意味)の大規模なもので、伝承のとおり九重塔であった可能性が高い。

昭和48年(1973年)から同57年(1982年)にかけて奈良国立文化財研究所の行った発掘調査によって、寺跡からは大量の焼け土や焼けた瓦が検出され、この寺が完成後まもない頃、もしくは工事中に火災に遭ったことが判明した。さらに出土した土器の編年から、この伽藍の建立は持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された。以上のことから、前述の天武朝に建立された高市大寺とは年代が合わず、高市大寺と大官大寺とは別の位置にあったとする説が有力となっている。

平城京への移転以後

飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(元興寺)、薬師寺、厩坂寺(うまやさかでら、後の興福寺)などは平城京への遷都とともに新都へ移転している。大官大寺も平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。平城京への移転の年次については正史「続日本紀」には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、「続日本紀」の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があるが、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、「扶桑略記」によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年(711年)すなわち遷都の翌年に火災に遭ったという。前述の大官大寺跡の発掘調査の結果からも、火災のあったことは確認されている。

平城京の街路は1町(約109メートル)ごとに碁盤目状に配され、4町ごとに走る東西路は一条大路、二条大路・・、南北路は一坊大路、二坊大路・・、と名付けられていた。大安寺の正門にあたる南大門は六条大路に面して建っていたが、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであった。伽藍配置の特色は、東西両塔(七重塔)が金堂から大きく離れ、南大門の外側(南方)に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。

天平19年(747年)の「大安寺資材帳」によると、同年現在、大安寺には887名の僧が居住していた。奈良時代の大安寺には、インド僧・菩提僊那、唐に16年間滞在した留学僧・道慈など、帰化僧・留学僧を含む著名な僧が在籍していた。菩提僊那は東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られる。道慈は三論宗系の学僧であり、奈良時代に護国経典として重視された新訳『金光明最勝王経』を日本にもたらすなど、上代仏教史上重要な人物である。唐僧・鑑真を日本へ招請するため唐に派遣された普照と栄叡、空海や最澄と交流のあった勤操、また最澄の師にあたる行表も大安寺の僧であり、大安寺が日本の上代仏教の発展に果たした役割は大きかったが、都が平安京へ移ると次第に衰退した。寛仁元年(1017年)の火災では本尊釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはなかった。慶長元年(1596年)の地震による損害の後、近世には小堂1つを残すのみであったという。

大安寺の旧本尊・乾漆造釈迦如来像は「資材帳」に天智天皇発願の像と記され、名作として知られていた。平安時代末期の保延6年(1140年)に南都の諸寺を巡った大江親通の『七大寺巡礼私記』は、薬師寺の本尊像(現存、国宝)についての記述のなかで、「薬師寺の本尊像は優れた作だが、大安寺の釈迦像には及ばない」という趣旨のことを述べている。平安時代末期に和様彫刻様式を完成させた仏師・定朝も大安寺の釈迦像を模作したことが知られている。この釈迦像も今は失われ、見ることができない。

なお大安寺自身により、学術論文集「南都大安寺論叢」(南都国際仏教文化研究所編、平成7年・1995年)と、「大安寺史・史料」(昭和59年・1984年)が刊行されている。




大安寺


大安寺


大安寺


大安寺


大安寺


大安寺(だいあんじ) 奈良市大安寺2-18 TEL0742-61-6312

アクセス:近鉄・JR「奈良」駅より バスで「大安寺」下車徒歩10分

拝観料;境内自由 宝物殿400円

駐車場 あり 無料

大安寺のホームページへ









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